岐阜県飛騨高山市生まれ (山形市在住、既婚) | |||
1975年 | 高山市立松倉中学校入学 | ||
1978年 | 岐阜県立斐太高校入学 | ||
1981年 | 山形大学医学部入学 在学中:自転車による日本一周を決行(合計12.000kmを走る) | ||
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その後主にアジア地域を中心に1日$20の貧乏旅行を開始。アルバイト代は全てこれに消える。卒業の時点で17ヶ国を踏破。 大学時代は「音楽愛好会」というサークルで6年間音楽に専念。作詞作曲、ギター、歌、ヴァイオリンがパート。 山形市内の等ライヴ喫茶「指揮棒(タクト)」でアルバイト。ステージで歌う日々 |
クリスマス・コンサート(初めて映像を使う) |
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1987年 | 山形大学医学部卒業、同年同学部精神神経科に入局 | ||
1988年 | 山形大学医学部大学院に入学。専攻は精神薬理学 | ||
1989年 | タイーカンボジア国境の難民キャンプで難民心理の研究開始。同時にJVC(日本国際ボランティアセンター)に所属し、難民に対する救援活動開始(〜92年) | ||
1990年 | 医師としてベトナム入り。ベトちゃん、ドクちゃんの主治医フォン先生と懇意にし、医薬品を送る(短期) | ||
1991年6月 | 湾岸戦争直後のイラクに日本人医師としては初めて入り、JVCのメンバーとして緊急救援活動を行う(短期) |
バグダッドの小児病院にて |
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1991年12月 | 山形県内の急増する外国人花嫁に対する支援事業として「外国人医療情報センター」設立(所長)。同時にJVC山形(日本国際ボランティアセンター山形)創立(設立当時は事務局長) |
母国語による健康相談の様子 |
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1992年3月 | 学位取得。医学博士 | ||
1992年7月 | AMDA(アジア医師連絡協議会)のカンボジア支援事業総責任者として、カンボジアに医療援助を開始(〜96年末) |
カンボジア、コンポンスプー州での地域巡回診療の様子 |
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1993年 | 米国ハーバード大学と共同研究で世界の難民の精神医学的研究を開始(〜96年) | ||
1994年 | オスロ大学附属「心理社会難民センター」留学 | ||
1994年2月 | 内戦下のソマリアに医療救援活動として入る(短期) |
ソマリア、ハルゲイサでの診療活動 |
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1995年1月 | JVC山形として阪神大震災下の神戸市長田区に医療救援活動として入る | ||
1995年6月 | 日本で精神を病んだフィリピン人女性の帰国支援プログラムと、フィリピン国内におけるアフターケア事業を開始(終了) |
フィリピン事業スタッフと(マニラにて) |
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1996年10月 | 旧ユーゴスラビアに入り心理社会的ケアプログラムに関わる(〜98年) |
サラエボで、JEN(日本緊急救援NGO)のメンバー |
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1999年1月 | JVC山形がIVY(国際ボランティアセンター山形)に改名。同時に代表となる | ||
1999年6月 | IVY、NPO法人化。 | ||
2002年4月 | 「地球のステージ」独立 | ||
2002年8月 | NPO法人「地球のステージ」設立。代表理事となる。 |
現在継続中の活動:
@学校現場を舞台に国際理解講座「地球のステージ」開催中(映像と音楽と語りで織り成す世界の子供たち) |
A中国人性暴力被害者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の検証 |
B東ティモールバイロピテ診療所においての医療支援活動 |
Cパレスチナにおける支援活動 |
D日常の病院における診療 |
ひとこと: 私の活動はみな「行政」ではなく、民間のボランティア団体をベースにしたものです。誰でも関われて、政治的なものはなく、もちろん宗教的色彩も一切ない中で、一民間人の医師としてこれまで活動してきました。 私は、最近さまざまなところで話をさせていただいておりますが、私が小さかった頃、「世界」を意識することはじつに大変なことのように思えていましたが、実際にこうして活動をしてみると、誰でもその気さえあれば、さまざまな形で「世界と関わる」ことは可能であると感じております。 世界とのつながりをもつこと、それは「心の中に橋が架かる」ことをどう意識化することかだと思っています。 |
桑山紀彦 2002/12/01現在 |