変質者


 ヒューッ、バーン。キャンプファイアーの向こうから花火が上がった。それを合図に松明に火を点す。と同時に、石笛の鋭い音が闇を切り裂いた。物陰に隠れ息を潜め待機すること十分余り、いよいよ我らが縄文太鼓のお出ましである。
 ここは古代の丘の星の広場。今日は、地元の小学校の縄文キャンプで賑わっている。そのキャンプファイアーをさらに盛り上げるベく、我々の出番となったのである。もちろん、子供達には知らされてはいない。

 松明の炎に照らされ、白い装束の縄文人達が闇の中に浮かび上がる。それぞれに持った太鼓や竹が、悪霊払いの曲『バラエ』のリズムを刻み始めた。百メートル程離れたキャンプファイアーの周りでは、子供達が何事かとざわつき始めている。実は、これを見るのも楽しみのひとつなのだ。
 二本の松明を先頭に横に広く拡がった縄文人達は、楽器を奏でながらゆっくりと近づいて行く。面の皮ほどには厚くない足の裏に、刈ったばかりの牧草がチクチク痛い。
 子供達が口々に何事かわめいている。「あっ、ヘンシツシャだっ!」ひときわ大きな声が耳に届いた。かなりきつめのジャブである。確かにこのシチュエーションでの登場は、いささか尋常ではないかも知れない。しかしいくら何でも『変質者』はねぇべよ、おおっ? 怒髪は天を突き、かたや、吹き出しそうになる顔を必死にこらえながら、無邪気な笑顔の子供達に近づいて行く。
 キャンプファイアーの近くに陣取り、すぐさま、祈りの曲『ガモス』の演奏に入る。静かな曲と言う事もあってか、子供達はそれなりに真面目に聞いている様子である。曲が終わり開口一番「えー、我々は変質者ではありません。」とりあえず間違いを指摘するところから、挨拶は始まった。
 我々の活動の意義は、演奏を通じ、自然とともに生きた縄文の暮らしと現代社会とを対比し、物質文明追求の余り置き忘れて来た、大切な何かに気付き、取り戻して行こうという事にある。そしてその事は、我々の子供達がまたその子孫達が、この地球上で幸せに生きて行く為の、重要なヒントでもあるような気がするのだ。だから子供達に聴いてもらえる今日のような場には、こちらから無理やりに売り込んでも演奏に駆けつけたいのである。
 そんな気持ちを込めながら、縄文太鼓の紹介やら縄文時代の話を続ける。たとえ半分でも頭の隅っこに残っていてくれたら、それでいいのだ。
 『ドンコ』『ガンベ』と演奏が進むうち、ペースは完全にこっちのもの。『レラ』では何人もの子供達や父兄達が踊りの輪の中に入ってくれた。フィナーレの曲『ゴエラ』での掛け声は、東山に届かんばかりの大声の応酬だ。燃え盛る炎に照らされた子供達の顔は、すでに縄文人のそれである。実にいい顔をしている。そう、この顔が見たくてやっているのだ。大きな拍手の中演奏を終え、我々の出番が終了した。いやー、満足マンゾク!

 ちなみに辞書をひもといてみると、『変質者』とは『性格・感情が異常な人。健康人と精神病者との中間にあるもの。』とある。十年も前の話ですでに時効と思われるので白状するが、縄文キャンプでの演奏の帰りがけ、小学校のプールに忍び込んでフルチンで泳いだ事などもあったから、あながち間違いとは言い切れない。まあ、『変質者』と言うのはあんまりとしても、その一歩手前の『変わり者』の集団であることは、決して否定するものではない。


1994.OCT 縄文太鼓 金子俊郎

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